About DENNIS KUCINICH

《少年期》

 デニス・クシニッチは、1946108日、エリー湖岸の大都市クリーブランドで、元海兵隊員でトラック運転手をしている父フランクと母ヴァージニアの間に生まれた。クシニッチ家は大家族で、デニスは7人兄弟の一番上であった。(父は、息子たちをみんな海兵隊に入れたがった。実際、クシニッチの兄弟のうち2人が海兵隊に入っている。)
 一家は貧しく、デニスがハイスクールを卒業し家を出て自立するまでの17年の間だけで、21回に及ぶ転居を繰り返している。転居は部屋を追い出されたからであるが、その理由は家賃の滞納ではなく、家族が多過ぎたためであった。スペースを得るために、兄弟の一人はクロゼットで寝なければならないような暮らしぶりだった。
 自ら文学を愛するというデニスは、わずか
3歳で母親から字の読み方を教わった。
 小学生のころからデニスは苦学生だった。授業料を払うために、床を磨いて用務員の仕事を手伝った。
 ハイスクールに上がってからは、
1週間のうち6日、ゴルフ場でキャディとして働いた。ゴルフバッグを2つかついで1日に45ホール回るきつい仕事だった。

デニス・クシニッチ年譜

  1946 108日クリーブランドで生まれる。
父フランク、母ヴァージニア、
7人兄弟姉妹の長兄。
  1967 クリーブランド市会議員立候補(落選)




1969 市会議員初当選
1971 市会議員再選
1972 米国議会選挙運動失敗
1973 ケース・ウェスタン・リザーブ大学卒業、学士・修士
市議会議員再選
  1975 市裁判所事務官に選任される
  1977 クリーブランド市長当選(31)



1979 市長選挙(再選)落選
1980 講師
1982 オハイオ州官吏落選
1983 クリーブランド市議会議員当選
1986 オハイオ州知事立候補表明。後に取り消し。
  コンサルタント業
1988 連邦下院議員選挙落選
1992 連邦下院議員選挙落選
1993 政策コンサルタント
  1994 オハイオ州上院議員当選



1996 連邦下院議員当選
1998 連邦下院議員再選
クリーブランド市議会より、「市営電力供給システムの売却を拒絶した勇気と先見の明の持ち主」として表彰される。
2000 連邦下院議員再選
2002 連邦下院議員再選
2003 民主党大統領指名候補

 デニスは、少年期のほとんどの時間をゲットーの路上で過ごした。ゲットーの路上は、彼にとって教育の場であり、黒人白人を問わずあらゆる人々と友達になった。
 デニスは同年代のどの少年たちよりも独立心が強かった。権威に対して敬意を払うよういつも教えられてきたデニスであったが、次第に教師たちと衝突するようになるのだった。
 デニスは、ハイスクール卒業後、家を出て自立、
2年半働いた後に、クリーヴランドにあるケース・ウェスタン・リザーブ大学に入学しコミュニケーション学で学士号・修士号を取得する。彼は、父方、母方両方の一族の中で初の大卒者となった。

《クリーブランド市議会へ》

 デニスが政治に関心を持つようになったのはベトナム戦争からだった。彼はインタビューで次のように答えている。
「何万人ものアメリカ兵が死んでいる一方で、利益を得ている者がいた。一緒にスクールバスに乗った私の友人たちもベトナムに行き、そして死んでいった。私は、これは汚いビジネスで、このことについてもっと知るべきだと考えた。」
 
67年、まだ大学在学中の21歳のとき、デニスは市政に進出すべく市議会選に立候補した。彼の選挙運動は、ひたすら11軒の家を回って人々と話すというものだった。(後にデニスは、11軒回ることで真の教育を受けたと語っている。)
 69年、デニスはちょうど23歳になったときに市議会議員に選出された。彼の選挙区は、ポーランド系、ウクライナ系、ロシア系、ギリシア系、スロバキア系、アパラチア人、プエルトリコ系、黒人から構成されていたが、これはクリーブランドに限ったものではなく、アメリカの人口構成のある典型のようなものである。
 人々はどうしてデニスが市議会に選出されたか不思議に思った。誰もデニスがベテラン議員を破ろうとは思ってもいなかった。しかしデニスは、ほとんど彼のわずかな選挙資金だけで、低所得者層などの社会的弱者を組織して当選したのだった。
 当選したデニスに、先輩議員の何人かが寄って来て言った。「ぼうや、よくやったな。君がすることは、自分の席に座って黙っていることだ。私たちが言うことをただ聞いてさえいれば、いつかはこの町の大立者になれるだろう。」
 デニスによれば、彼は初め他の議員たちを怒らせていることに気がつかなかったという。他の議員たちは何らかの利益団体の代弁者であり、議会の中では、純粋に選挙民を代表しているデニスと常に
311の関係にあった。  

 

《青年市長の正義》

 1975年にクリーブランド市裁判所事務官として選任された後、デニスは、市営電力会社(MUNY LIGHT)の売却や民営化はしないという公約を掲げ、31歳の若さでクリーブランド市長になった。彼が選出されたのは、市議会議員に選ばれた時と同じように、システムそのものの変革を期待されてのことであった。しかし、彼が改革に着手し始めるとクリーブランドのビジネス界の巨人たちは、それを叩き潰そうとメディアの影響力を行使し始めた。市庁舎は彼らの影響下にあったのである。
 クリーブランドには、デニスが市長になる以前に、すでに数千万ドルの債務が生じていた。市は地元銀行と
1400万ドルの手形の書き換えの交渉をしようとしていた。
 市議会議長、クリーブランド信託銀行の取締役会長、デニスの友人である地元ビジネスマンと朝の
8時に開かれた会議で、話はすぐにMUNY LIGHT(市営電力会社)のことになった。信託銀行の会長は、「もしMUNY LIGHTをクリーブランド・エレクトリック・イルミネイティング社(CEI)に売却すれば、融資枠を拡大し、市を債務不履行から救ってやろう。」と言った。CEIの筆頭株主はクリーブランド信託銀行であり、クリーブランド信託銀行の役員のうち4人が、CEIの役員を兼任していた。もしデニスがこの話を承諾しなければ、銀行からの援助はまるで期待できない状況だった。
 
MUNY LIGHTはクリーブランドに46000世帯の顧客があった。MUNY LIGHTCEIは、ほとんどの地域で競合していた。MUNY LIGHTの過去数十年の料金は、CEIよりも2060%安かったが、MUNY LIGHTの優位は、CEIの働きかけによって数年にわたって下落を続けていた。
 デニスは、公約違反による倫理的な不履行よりは債務不履行を選択した。売却は電力料金の恒久的上昇を意味していたからだ。
 テレビの生番組で、
MUNY LIGHTに関しては、損失が発生しているわけではなく、障害についてはCEIの妨害に起因するものであって、MUNY LIGHTを問題にすること自体誤りであるということ。債務の問題について、6つの銀行のうち5行が同意した、緊縮財政の実施だけでなく所得税の増税という、債務不履行の回避策が市にはあるということをデニスは訴えた。これらの問題を解決することが、まさにデニスが市長に選ばれた理由ではあったのだが、同時に彼の政治生命を危うくするものであることは、彼にも十分にわかっていた。しかし、彼はあえて困難な道を選んだ。
 所得税増税と
MUNY LIGHT売却の問題は、227日の住民投票で決することになった。デニスたちはボランティアを組織し、クリーブランドの厳冬の中、一軒一軒ドアを叩いて支持を訴えた。デニスたちは、約21で、両方の問題に勝利した。経済的な問題で、白人と黒人が、貧困層と中間層がまとまったのは、クリーブランドの歴史上初めてのことだった。
 だが、このことで財界を敵に回したデニスは、再選を阻まれ、
90年代の半ばまで政治の表舞台から姿を消すことになった。 

 

《魂の暗夜〜夜明け》

 1979年のクリーヴランド市長選挙で再選を果たせなかったデニスは、15年という長い長い雌伏の時に入る。その期間を、彼は「人生の最も重要な時代」としながらも、「魂の暗夜」と呼び、その苦労が並大抵ではなかったことをうかがわせている。
 再選を果たせなかったデニスは、クリーヴランドで新しい職を得ることができなかった。
 彼はほとんど追放されたも同然に「自身のオデッセイを始めるために」西海岸へと赴く。
 カリフォルニアに始まり、ワシントン州、オレゴン、そしてニュー・メキシコに飛び、その後アラスカへ…。デニスに安住の地は無く、政界復帰の望みも無かった。
 この間彼は、ケース・ウェスタン・リザーブ大学のコミュニティ・カレッジでコミュニケーションの授業を受け持ったり
(1980-83)、ラジオのコメンテーター、テレビのリポーター、コメンテーターをしたり、色々な地域が公営の電力供給システムを構築する際のコンサルタントを勤めたりといったことで糊口をしのいでいた。彼はいまだに放送メディア労働者の組合員証を持っているが、この会員証は決して名誉職的なものではなく、生活の糧を得るために、労働者として彼がメディアの中で働いていた証なのだ。
 
83年のクリーヴランド市議会議員選挙の勝利を除いては、彼はことごとく負け続けた。2度の連邦下院議員選挙だけでなく、州レベルの選挙でも彼は勝利できなかった。86年には、オハイオ州知事選挙に出馬表明しながら、それを取り下げるという屈辱的な経験もしなければならなかった。
 いくら正義のためとはいえ、
Muny Light の売却問題から財界を敵に回し、結果的に市を債務不履行に陥れたデニスから、人々の心は離れていってしまったかのような敗北の歴史であった。

 しかし、正しいことをすると常にいい結果がもたらされると、デニスが信じていたとおり、風は再びデニスに向かって吹いてきつつあった。彼の政治生命をかけた選択に対し、クリーヴランドの日刊紙プレイン・ディーラーによる再評価が始まっていたのだ。
 プレイン・ディーラー紙の記者は、地元の役人が、デニスの
Muny Light売却拒否が正しかったという結論に至った経緯を追っていた。新聞に記事が掲載されると「人々は私に近づき始め、『復帰してはいかがですか。』と声を掛けてくれるようになりました。」とデニスは回想している。
 
1994年までに、低額の電気料金に感謝する多くの有権者が、デニスを支持するようになった。デニスの陣営は「なぜなら彼は正しかった(ライト)」というスローガンが書かれた電球(ライト・バルブ)の形をしたビラを配り、共和党の現職候補を退け、オハイオ州議会上院議員として、政界復帰を果たすのであった。
 
1996年には「議会に明かりを! (Light Up the Congress)」というスローガンを掲げ、とうとう下院議員選挙に当選する。そして、それを祝うかのように、1998年にはクリーヴランド市議会が、「市営電力供給システムの売却を拒絶した勇気と先見の明の持ち主」としてデニスを表彰している。
 
2003年、連邦下院議員として4期目の「わんぱくデニス(Dennis the Menace )」は、大統領選に挑んでいる。

 

) わんぱくデニス…ハンク・ケッチャム作のコミック。ケッチャムは1920年シアトル生まれ。わんぱくデニスは1951年より掲載。アメリカの新聞には現在も掲載されている。また、アニメではなく実写版で映画化されている。

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